日本で初めてルイ・ヴィトンのバックを買った人は、、、どうも板垣退助らしい/坂本龍馬と板垣退助の誕生地は、地味です/天守閣が現存する高知城。石垣のケアはやはり万全。組織論にも通ずるケアでした - Today→Tomorrow

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12/26/2012

日本で初めてルイ・ヴィトンのバックを買った人は、、、どうも板垣退助らしい/坂本龍馬と板垣退助の誕生地は、地味です/天守閣が現存する高知城。石垣のケアはやはり万全。組織論にも通ずるケアでした

日本の城は美しい。高松には、なかったものを高知で撮影。今回、帰国して初めて眺めた天守閣はコレ。

朝10時ごろ、高知市ダウンタウン内をドライブ。すぐ近くを路面電車が追い抜いて行きました。
 はりまや橋交差点で、突然のアラーム。何事かと左を見ると、、、
 カラクリ時計が10時の時報を鳴らしていました。下から現れたのは、よさこい踊り。
 左には、龍馬が登場
 そして右からは、
 はりまや橋でかんざしを渡す純信です。
youtubeに動画がアップロードされていたので、リンクを貼っておきます。


 はりまや橋の交差点は、路面電車も交差するので、ちょっと危険です。
 結局、一度も乗ることのなかった路面電車がすぐそこに、、、少し心残りがあります。
 高知と言えば、坂本龍馬の出身地です。しかし坂本龍馬のほかにも、偉人と言われる思想家がいました。自由民権運動のリーダー・板垣退助です。
板垣退助誕生地 - 高知市公式ホームページwww.city.kochi.kochi.jp › 組織でさがす › 観光振興課共有板垣退助誕生地. 2010年6月29日. 板垣退助、天保8(1837)年生まれ。後藤象二郎より1歳年上だったが、竹馬の友であったといわれる。 吉田東洋の長浜鶴田塾にも通っていたようで、のちには東洋に抜擢されて、免奉行から江戸藩邸勤めもしている。後藤象 ...
高野寺の入口にある石碑が板垣退助が生まれた場所です。

石碑を車から撮影し、再びドライブ。向こうからアンパンマンの路面電車がやって来ます。なぜアンパンマンなのか?だいたい想像がつきます。
アンパンマンの作者・やなせたかし氏は、東京都北区生まれですが、ここ高知市で育ちました。驚いたことに、やなせ氏は90歳を越えてなお、現役の漫画家として活躍しています。
 板垣退助の誕生地からすぐの場所ある、龍馬の誕生地。大通りに面した場所なので、あまり目立ちません。
 龍馬は1835年11月15日に誕生し、33年後の同じ日に暗殺されました。
坂本龍馬誕生地 - 高知市公式ホームページwww.city.kochi.kochi.jp › 組織でさがす › 観光振興課共有2011/12/19 – 高知城下本丁筋1丁目,現在の高知市上町1丁目上町病院前に,誕生地の碑は建っています。父坂本八平直足,母幸の次男として,1835年天保6年11月15日,この地で誕生した坂本龍馬は,1867年11月15日の奇しくも自らの誕生日に, ... 
この石碑は、所要時間1分くらいで見学終了。この石碑からすぐの場所に車を停めて、散策。
 はだ寒い外で、元気に将棋を楽しむベテランの皆さん。
 屋外の将棋場から顔を上に向けると、目に飛び込むのが美しい高知城。 将棋をやりながら、この景色を眺めるとは、何とも贅沢だと思いませんか?

高知城kochipark.jp/共有南海の名城、高知城の公式ホームページです。関ヶ原戦の功績により徳川家康から土佐一国を拝領した山内一豊は、慶長6年(1601)大高坂山に新城の築城工事を始め、慶長8年(1603)に城の大部分が完成、入城しました。 享保12年(1727)城下町の大火で ...


高知城 - Wikipediaja.wikipedia.org/wiki/高知城共有2月3日(日)東京大学にてWikimedia Conference Japan 2013を開催します。参加者・スタッフ募集中! 高知城. 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』. 移動: 案内、 検索. logo. 高知城 (高知県). 天守(重要文化財). 別名, 鷹城. 城郭構造, 梯郭式 ...



徳川幕府時代に、長宗我部氏に代わって土佐を治めた武将・山内一豊。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えた武将です。

山内一豊 - Wikipedia

ja.wikipedia.org/wiki/山内一豊共有
2月3日(日)東京大学にてWikimedia Conference Japan 2013を開催します。参加者・スタッフ募集中! 山内一豊. 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』. 移動: 案内、 検索. 凡例. 山内一豊. Yamanouchi Kazutoyo.jpg. 時代, 戦国時代 - 江戸時代 ...

まずは追手門から城内へ
 いかにも堅強そうな門です。
 城内は、高知公園として一般開放。奥に立つ銅像は、、
 板垣退助です。
庶民派の政治家として、圧倒的な国民的支持を得ていた板垣退助は、のちにお札の肖像画(50銭札、100円札)にもなりました。ちなみに本名は板垣正形で、”退助”は通称。

1837年生まれ。戊辰戦争時には、新政府軍の参謀として辣腕をふるいましたが、西郷隆盛とともに”武力で朝鮮を開国させよう”とする征韓論を唱え、政府から退きます。
1874年、後藤象二郎と供に民撰議院設立建白書を政府に提出。愛国公党や立志社を設立。それから自由民権運動を指揮して、自由党が結成され総理に就任。それは日本にとって初めての政党の誕生でした。
1882年、岐阜での演説中襲われ負傷。「板垣死すとも自由は死せず」はそのとき叫んだ言葉。
1884年、自由党を解散。
1890年、立憲自由党を結成し、第2次伊藤内閣の内務大臣を務め、1898年には大隈重信と共に憲政党を結成し、大隈内閣の内務大臣を務めました。
1900年、政界引退
1919年、病死

住居など保有する私財をなげうって自由民権運動に奔走し、晩年は金銭的困窮に陥っても、なお政治活動に奔走。政界引退後の1907年に華族に世襲禁止を説く一代華族論を華族に贈る活動を始めます。

板垣退助は、言わずと知れた現在の自由民主党の礎を築いた人物。
現在の政党や企業にも共通しますが、創業者理念を忘れると組織そのものの存在意義が薄くなり、いずれ様々な意見でバラバラな状態に陥る。これは組織運営の鉄則です。

ちなみに雑談ですが、、、。立憲政治の欧州視察(1882-1883)中に後藤象二郎と板垣退助は、ルイ・ヴィトンのトランクを購入。この2人は、日本人として初めてルイ・ヴィトンのバックを所持した人物としても知られています。
高知とルイ・ヴィトンの100年以上の因縁に驚きました。

板垣退助愛用のトランク寄託 日本で最古?ヴィトン製 - 47NEWS(よんな ...www.47news.jp/CN/201109/CN2011091601000636.html共有2011/09/16 – 板垣退助愛用のトランク寄託 日本で最古?ヴィトン製. 板垣退助が愛用したルイヴィトンのトランク=16日午後、高知市の高知市立自由民権記念館. 高知出身の政治家で自由民権運動の指導者板垣退助(1837~1919)が愛用したルイ・ ...



 板垣退助の銅像の左にある階段を上ります。
 石垣に見たことのない突起物。石樋(いしどい)と呼ばれる排水設備です。多雨地域の高知にある城ならではの設備で、他の城では見ることはありません。排水が直接、石垣に当たることを防ぐように作られ、水が落ちる部分には石が置かれ、地面を保護しています。
 非常にレアな銅像もありました。なんと、山内一豊の妻・千代の銅像です。武将の銅像はあちこちで見られますが、妻の銅像とは、、、。この妻、なんだか普通の妻とは違うようです。
夫の一豊が織田家の家臣のひとりだったころ、戦のため、馬の調達をしなければなりませんでした。
そのころ馬売りが連れてきた駿馬が欲しかったのですが、購入資金がありません。それを聞いた妻・千代は嫁入り資金の10両で、馬を購入。その見事な駿馬は信長の目を引き、感心されました。 
やがて秀吉亡き後、再び戦乱の世になります。そのころ夫・一豊は徳川家康に仕えていました。大阪にいた千代は、家康の敵方である石田三成の監視があるにも関わらず、石田三成の情報を一豊に密告。そして密書を一豊に託します。千代は、その密書を「開封することなく家康に渡すこと」を一豊に伝え、一豊は千代の言葉のどおりに開封することなく、家康にその密書を渡します。その密書を見た家康は、関が原での勝利の後に、一豊を重用し、土佐24万石を与えます。

気になる家康が読んだその密書には、千代が夫・一豊に対して「私(千代)はどうなってもいいから、家康様に仕えなさい」という内容が書いてありました。

高知城の堅固で美しい石垣。
武田信玄の甲陽軍鑑にある勝利の礎 「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」という言葉を思い出します。

この屈強そうな石垣にも、石樋がありました。先ほどの石垣にあった樋よりも小さいです。
この小さな樋があるのは、本丸からほど近い石垣。この石垣での排水量は、下層よりも少ないので、この程度の排水設備で十分なのでしょう。
本丸から下になればなるほど、排水の量が増え、石垣へのダメージが大きくなるので、大きな排水設備によるケア対策が必要となります。なんだか組織論を目で見ているようでした。

それにしても立派な石垣です。しっかりとその上に立つ本丸を支えていました。
 階段をどんどん上ります。
 目の前に頑丈そうな建物。中に入ることはできませんでした。
 突然、本丸から大きな水の流れる音が聞こえてきました。
 おそらく火事対策の放水作業でしょう。
 最上段には本丸への入口がありました。
 ただ残念ながら、年末休業のため、ここも中に入ることができませんでした。
 下段に行くと、階段の中程の石の切れ目から水が噴出していました。先ほどの放水の水でしょう。
こうした突発的な水が、思いもかけない場所から噴出し石垣を傷めることもあります。こんな状況の場合は、とりあえずの突貫工事。水が止まったら原因を探して、丁寧なケアをすることが重要です。これも組織論に通じます。
 石垣の上にある広場
 そこから眺める本丸。この美しい城を守るには、石垣や本丸自体の整備が必要です。
 広場から見た高知の町並み。かなり大きな都市でした。


車に乗り、高速道路を北上、
 そして西へ。瀬戸内海が見えてきました。

次につづく、、、


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