寺公認?最新の四国お遍路ファッションを公開!イマドキはこのような格好で巡業するのが流行りなのか!?at 霊山寺/習字に陶芸、サッカーに音楽会、そして海水浴を楽しむ!これすべて戦時中の収容所生活の一部です at 坂東俘虜収容所/「博愛の精神と武士の情けをもって俘虜に接する事」松江所長の訓示です - Today→Tomorrow

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12/24/2012

寺公認?最新の四国お遍路ファッションを公開!イマドキはこのような格好で巡業するのが流行りなのか!?at 霊山寺/習字に陶芸、サッカーに音楽会、そして海水浴を楽しむ!これすべて戦時中の収容所生活の一部です at 坂東俘虜収容所/「博愛の精神と武士の情けをもって俘虜に接する事」松江所長の訓示です

遠い極東の国Japanヤーパンで捕虜として生活した日々、それはまさに忍耐のときだったのでしょう。
ドイツ軍少佐の思いを綴った筆文字は、コレ。


昼食後、再び、ドライブ。
ポカリスウェットの大きな看板。鳴門市は大塚製薬の創業地です。
 旅行に行くと、かならず駅に行くのが通例です。JR鳴門駅です。

鳴門駅 - Wikipediaja.wikipedia.org/wiki/鳴門駅共有鳴門駅(なるとえき)は徳島県鳴門市撫養町小桑島前浜にある、四国旅客鉄道(JR四国)鳴門線の駅で、同線の終着駅である。駅番号はN10。駅表示パネルのコメントはうず潮と鳴門金時芋の駅。 徳島県では最北端の駅である。高徳線の阿波大宮駅とはほぼ同 ...
ちなみに”鳴門 なると”という地名の由来は、狭い海峡での潮の干満から発生する渦潮で大きな音が鳴るから鳴門という地名になりました。

信号も少なく快適なドライブ。ただし制限速度は時速50-60キロ。これがカナダだったら、この道幅でも時速70-90キロです。
 ”ちょっとよっ亭”を通過して、どんどん進みます。名前だけが気になったので、掲載しました。
ちょっとよっ亭 ちょっとよってい - 立道/魚介料理・海鮮料理 [食べログ]tabelog.com › ... › 徳島・鳴門グルメ › 鳴門グルメ › 立道駅グルメ共有ちょっとよっ亭/ちょっとよってい (立道/魚介料理・海鮮料理)の店舗情報は食べログでチェック!口コミや評価、写真など、ユーザーによるリアルな情報が満載です!地図や料理メニューなどの詳細情報も充実。

到着したのは、霊山寺。通称”一番さん”と呼ばれるお寺です。 

霊山寺 (鳴門市) - Wikipediaja.wikipedia.org/wiki/霊山寺_(鳴門市)共有霊山寺(りょうぜんじ)は徳島県鳴門市大麻町板東にある高野山真言宗の寺院。竺和山(じくわさん)一乗院(いちじょういん)と号する。釈迦如来を本尊とする。とくしま88景に選定されている。 四国八十八箇所霊場の第一番札所である。第一番の本寺を起点として ...


さっそく寺内へ。大小の建物が建つ、わりとこじんまりした寺院。
 入口の門をくぐって、右手にある池。左の仏像は池の方向に顔を向けています。その顔の方向には、
 熱心な信者??もしくは小僧??ハスの上にいるので、神の子でしょうか。
 多宝塔も、りっぱな作り。
 白い服を着た参拝者が向かっているのは、
 本堂。
 このお寺は、四国内の88箇所のお寺を巡る四国遍路の一番最初に訪れるお寺です。

四国八十八箇所 - Wikipediaja.wikipedia.org/wiki/四国八十八箇所共有四国遍路にちなむ文化 に移動‎: 逆打ち: 四国を時計回りに札所の数字を昇順に巡礼するのを順打ちといい、反時計回りに降順に巡礼するのを逆打ちという。また、四国八十八ヶ所霊場会によると、お遍路は何番札所からを始めてもよいといわれ、88か所の ...


 本堂の横にも、たくさんの仏像がならんでいます。
 お遍路をする巡礼者は、お寺内でお遍路グッズを買うことが出来ます。
徒歩で一日30キロを歩いても約40日間を費やすお遍路。巡礼者のためのポータルサイトもありますので、巡礼をされるかたは予め情報収集を忘れずに!
四国八十八箇所 お遍路ポータルwww.ohenro-portal.jp/共有2012/09/08 – お遍路情報専門サイト。四国八十八箇所 お遍路ポータルでは、お遍路札所情報・地図情報・みんなの納経帳・お遍路道中記・情報交換の広場を設置。

もちろん巡礼ファッションも忘れずに!現代風の着こなしは、お店の外にマネキンがあるので要チェック。
レトロなパリジャン風に帽子を傾け、数珠は左手首を飾るアクセサリーとしてエレガントにゆったり垂らす。足元は歩きやすいパンプスにするのがポイントです。 

ちなみに白衣を着るのは、お遍路の途中で行き倒れ、「どこで死んでもいいように」という意味合いが込められています。

再び、ドライブ。次の目的地は、
 この洋館・ドイツ館です。
ドイツの戦争捕虜を収容した坂東俘虜収容所跡地を記念して1972年に初代館が建てられ、この館は1993年に建てられました。
鳴門ドイツ館www.city.naruto.tokushima.jp/contents/germanhouse/共有鳴門ドイツ館(イラスト). About the German House · Guidance · Event · Information · Access · Ruhe · Link · German Page. 〒779-0225 徳島県鳴門市大麻町桧字東山田55番


 園内には、ドイツと日本の国旗が並んで掲揚。
 ここにもクリスマスツリーが飾られています。
 いかにもドイツらしい、素朴ですが、品質の高い木製玩具。私もドイツに少し滞在した経験があり、いまでもドイツが大好きです。

1914年の第一次戦争中に日本はドイツの極東根拠地・青島(中国)を攻略した結果、約4700名のドイツ人を戦争捕虜として収容。そのうち953名を、鳴門市のこの場所にあった坂東俘虜収容所に収容しました。
収容所の様子は、展示室にジオラマで再現されています。
 この収容所でのドイツ人捕虜の収容生活の様子が写真付きで紹介されています。
まずはスポーツを楽しむドイツ人。もちろんサッカーです。
 習字を学んだドイツ人少佐による筆字。
 捕虜達は大谷焼きを習い、作ったのはやはりビールジョッキ。
 ドイツの印刷技術は、この収容所でも健在でした。収容所内の印刷工場ではドイツの優れた技術で出版作業も行われ、切手や紙幣の発行も行っています。
 また地域の人々との交流も盛ん。地元の人たちからも「ドイツさん」として、受け入れられていたそうです。この交流がきっかけで、1918年6月1日に日本で初めてベートーベンの第九が演奏されました。

俘虜生活に不安を持つドイツ人たちの心の支えとして、自発的に1917年に”ドイツ沿岸砲衛隊オーケストラ”を結成。月一回の公演で帰国まで計34回も演奏会を開きました。前述の通り、1918年に坂東町から合唱団として80人の賛助を得て、第九のフル演奏。

 日本人にパンとバターの製造、園芸、土木、印刷、酪農、ハム・ソーセージ製造の技術指導もしていました。
実はドイツ人捕虜は、現役の軍人だけでなく技術者や職人らの混成だったそうです。

収容所での食事風景。ビールも食卓にならび、とても収容所の食事とは思えません。
戦争が進むに連れ、収容所の食事環境も悪くなり、しだいにドイツ人捕虜から不満が強くなりました。そんな不満を解消しようと考えたのが、土地を開墾しての自給自足。この収容所の所長は、収容所前の土地2300㎡を借り受け、そこを農地とスポーツグランドに開墾。後には有料のボーリング場とビリヤード場も作られました。坂東町内でスペイン風邪が流行ったときは、その収益を義捐金として寄付しています。

収容所運営の域を脱したこの解決策を推し進めたのが、坂東俘虜収容所所長の松江大佐です。


松江豊寿 - Wikipediaja.wikipedia.org/wiki/松江豊寿共有松江 豊寿(まつえ とよひさ、1872年7月11日(明治5年6月6日) - 1956年(昭和31年)5月21日)は、日本の陸軍軍人、政治家。 ... 1872年6月に現在の会津若松市で会津藩士、警察官・松江久平の長男として生まれる。1889年(明治22年)16歳の時に仙台陸軍 ...

松江所長は、「ドイツ捕虜も自国のために命をかけて戦った尊い人たち」として捕虜と丁寧に接し、「甘すぎる」「金をかけすぎる」との批判を跳ね除けて、捕虜のプライドと自主性を尊重し、できるだけ自由を与えました。

あるときドイツ人捕虜から、「どうしても海水浴がしたい」と捕虜とは思えない要望が出されたとき、松江所長は捕虜を連れて運動のため、海岸へ。「運動の後には、足を洗う必要がある」として捕虜達を海に入れ、「足を洗う結果、水浴びになった」として海水浴をさせました。

戦争も終わり、1919年12月から翌月の1920年1月にはヴェルサイユ条約により、戦争捕虜の本国移送が始まります。そして1920年1月10日、地元との親交が深かった坂東俘虜収容所のドイツ人が移送されるときは、坂東町内が葬式のようになったとの逸話もあります。

下の大谷焼きのビールジョッキは、ドイツ人捕虜から松江所長に日ごろの感謝の印として贈られたもの。
大半のドイツ人捕虜は本国ドイツに帰還しましたが、そのうち約170名は日本に残ります。彼らは、収容所で学んだ技術で生計を立て、日本で生活。
現在、東京証券取引所2部に上場しているハムとソーセージの製造販売会社ローマイヤ、そしてモロゾフと双璧をなす西洋菓子メーカー・ユーハイム、さらに神戸スイーツとして人気のフロインドリープの創業者たちは、残ったドイツ人捕虜のひとりです。

坂東俘虜収容所の話は多分に美化されていると思いますが、ドイツに戻った元捕虜で第二次世界大戦で再び捕虜となりシベリアに抑留されたPaul Kley二等兵が、晩年に以下の言葉を残しています。
「ひとり暮らしの今は、板東収容所の温かい思い出に包まれて生きている。それにしても、松江所長と高木副官は素晴らしい軍人だった。みんなが尊敬していた」

松江所長がドイツ人捕虜から尊敬されていたのは有名ですが、松江所長とともに収容所を管理していた高木副官も、ドイツ人捕虜から慕われていました。その証明として、ドイツ人捕虜による収容所内の機関紙バラッケでは、松江所長よりも高木副官のほうが多く登場しています。

松江所長は、1922年に軍を退官し、その年に若松市長となり、引退後、1956年5月に東京都狛江市の自宅で死去。高木副官は語学力を生かして、満州のハルピンにデパートの役員の肩書きで軍の諜報活動に勤め、第二次世界大戦後にシベリアに抑留されます。そこで1953年に病死。捕虜を大切に扱ってきた高木副官は、シベリアでの厳しい収容所生活により命を落としました。残念ながら、現在でも遺骨が戻ってきていません。

ドイツに帰還した元捕虜達のその後を紹介している展示。
 日本に興味を持ち、ドイツ語教師として再び日本に来た人や日本人と結婚し、海外に日本文化を紹介する活動をした方々もいます。
 1階のギフトコーナー。ドイツワインがたくさん売られていました。
ちなみに私の友人 沼尻慎一氏がドイツのドレスデンでワイン専門店を開いています。


dwgハンデル社について | DWG Handel店dwghandel.com/intro.htm共有また、当店ではドイツ国際ソムリエコンクール上位の沼尻がお客様のご相談、ご質問にお答えし、皆様にぴったりのワインをお選びいたします。 - 当店オープンまでの軌跡 -. 大学時代、ドイツに留学した際、ドイツの甘いワインと出会う。 22歳のとき、将来ドイツ ...

 ドイツと鳴門市の親交を紹介するパネル
 私にとって懐かしい町並みが紹介されています。
 ドイツのリューネブルグ市と鳴門市は姉妹都市協定を結んでいます。

ますます、鳴門市が好きになりました。

まだまだ続きます、、、、

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