アメリカ軍との戦いに備えて建設されたリドー運河。そのほとりでユリが咲いていた。
リドーセンターの裏門。
モール内を通過して、エンジェルの広場も通過。
そしてリドー運河。カナダ・デーの興奮もすっかり冷めてボートも少なくなり、いつもどおりの状態に戻った。
War Memorialの横の階段から
リドー運河に下りる。
今日も暑い日。気温は28℃くらい。トンネルの下はヒンヤリしている。
リドー運河のスタッフ詰め所。
その前に
鮮やかなスカシユリが咲いている。
ピンクの濃淡が美しい。
オタワ川方向へ移動。
ここから眺めるホテル・シャトーローリエ。何度見ても、美しい。
オタワ川。
アレキサンダーブリッジと探検家シャンプラン卿の銅像が丘の上にある。
オタワ川クルーズは、ここから出航する。
オタワ、、、、いいところだ。
カナディアンギース一行。
ヒナたちは、すっかり成長。
オタワ川沿いを歩く。
川のほとりで咲く黄色の野花。
オタワ川上流方向の景色。右の建物は最高裁判所。
オタワ川対岸の政府系ビル。政府系ビルの中では、米国ペンタゴンに次ぐ世界第二位の大きさを誇る建物だ。
アレキサンダーブリッジと広い空。
後ろを振り返ると、パーラメントヒルが見える。オタワ、、、、いいところだ。
川に白と黒の動物が泳いでいた。スカンクかと思い、ズームアップ。
流木を噛む犬だった。
相変わらずオタワ川の真ん中にある島が騒がしい。
無数のウミネコ?カモメ?が島を占領している。
落石防止のトンネルをくぐり、
先へ進む。
カナダ海軍のモニュメント。
右手の中洲には、ファーストネーションのテント。
釣り人もいる。
Wellington St.とPortage Bridgeの交差点。
更に進む。
War Museumの前の広場では、Blues Festが開催中。
巨大なステージが、3-4個ある。
喧騒を横目に歩き、
War Memorialに到着。
入り口に入ると、正面にギターが飾られていた。これはAlf Binnie's Guitar。第二次世界大戦中にドイツに捕らえられたカナダ人捕虜Alf Binnieが所有していたギターだ。
今日は木曜日、夕方5時から8時まで無料で博物館を見学できる曜日。
今回は、War Museumでの特設展示 PEACE 平和展を見る。ちなみにPAIXとはフランス語でPEACEの意味。
右のVサインをよく見ると、
一つ一つが展示物の写真になっていた。
展示会場に入ると、まずリボンが結ばれている。見学者それぞれが持つ平和をイメージする色のリボンを結ぶことができる。
展示はいくつかのテーマにわかれている。まずはINTERVENE(仲裁)のテーマへ。アフガニスタンで治安維持活動にあたるカナダ軍の兵士のパネル。
今も過酷な状況の中、カナダ軍の兵士たちが活動をしている。
現地の子どもと握手する兵士。
接収した武器は、
ソ連製の機関銃とロケット・ランチャー。鉛色が鈍く光る。
治安維持のための教育グッズ。
すごろく形式で楽しく、平和を学ぶ。
殉職した兵士を迎えるカナダ市民。
上のパネルに写っているベースボールキャップ。
スペイン内戦で派遣されたカナダ軍の兵士が自分たちの名前を扇子に署名した。
26名のカナダ軍兵士の名前がある。
展示エリア内。
ミス・カナダの赤いエプロン。
その後ろには、何やら懐かしい人形がある。
雛人形だ。この人形は1492年にオークションに掛けられたもの。第二次世界大戦中に強制移住または送還されたブリティッシュコロンビア州に住む日系カナダ人が所有していた人形だ。戦時中、移送/送還された日系人の財産は実質的にカナダ政府に没収され、売りさばかれた歴史がある。
このパンフレットは、日系カナダ人を強制的に移住または送還することに対して、”日系カナダ人はカナダ人なのに、なぜそんなことをするのか”と思うカナダ人も存在した。下のパンフレットは、「日系カナダ人の移住/送還」への疑問を投げかけている。この思いがやがてカナダ政府を動かし、この政策は1947年にキャンセルされた。しかし、そのころまでに約4000名の日系カナダ人が強制送還された。
これはホロコーストで生き延びたユダヤ人の子供が履いていた靴。 ホロコーストで両親を殺され孤児になったユダヤ人の子どもたちの中には、カナダ人の里親に引き取られるものも多かった。ユダヤ人孤児受け入れに感謝してドイツのユダヤ人たちがカナダのユダヤ人コミュニティーに贈ったギフト(ユダヤ教典トーラを収めるケース)。
続いて2010年におきたハイチ地震の支援の様子を紹介。
ハイチ大地震の復興に向けて、カナダ軍が出動。
ハイチ市民に配給したグッズを紹介。緊急に必要な3点セットが展示されていた。
まずは、水の浄化剤そしてサニタリーグッズとバンドエイド。
それと一番興味深かった子どもたちからの手紙だ。やはり励ましが重要だということがわかる。
続いて、ORGANIZEの展示コーナー。
核兵器についての展示から始まる。
オタワ郊外にあるDiffenbanker(対核兵器用の防空壕)の建設中の写真。強度を増すための鉄骨の幅が狭い。
冷戦の最中、カナダも核実験など核兵器開発に取り組んでいた。下は反戦活動の様子。
小さな透明ケースの中にあるのは、
子供の乳歯。放射能物質のストロンチウムは、骨や歯に蓄積しやすいため、未来に被曝の証拠を残そうと子どもたちの乳歯を保存する反戦活動がある。これはその一環。こちらに詳しい内容が書いてある。
1963年のカナダの選挙は「核保有」もしくは「非核」を選ぶ重要な選挙だった。結果は、核保有を目指すMike Pearsonが勝利。その後、カナダは核保有国を目指した。
グリーンピースの最初の旗も展示している。
米国がアリューシャン列島のアムチトカ島で行おうとしている地下核実験に反対するため、1969年、カナダのバンクーバーに「波を立てるな委員会(Don't Make a Wave Committee)」という組織が誕生。この組織は、のちに「環境」を意味する「グリーン(green)」と「平和」を意味する「ピース(peace)」をくっつけた「グリーンピース(Greenpeace)」に改名。
グリーンピースは、1971年、核実験を阻止するため、アムチトカ島沖合いの公海に船を居座らせて監視したその船に掲げられていたのが、この旗だ。
広島の原爆ドームの写真もある。
大きな写真パネルとともに紹介されていたのが、この日本人女性 Setsuko Thurlowさん。
13歳の時に被曝され、その後、反核運動に参加。被曝した彼女の家の時計が展示されている。
続いてベトナム戦争。
カナダはベトナム戦争に兵士を派遣していない。米国ではベトナム戦争時に徴兵制度を一時復活させた。そのため、徴兵を嫌う若者(写真下)がカナダに移民してきた歴史がある。
これがそのときに配ったカナダへの移民を説明するパンフレット。
ベトナムから難民としてカナダに渡る人たち。
彼らはボートピープルと呼ばれ、命からがら太平洋を小さなボートで渡って来た。その時に着ていた衣服。
カナダは彼らを人道的に移民として受け入れた。その後、感謝の贈り物として、カナダ政府に以下の寄贈品が贈られる。
カナダ人の反戦運動を紹介。
米国のベトナムからの撤退を訴え、カナダの共謀を非難するパンフレット。
その頃、世界で最も注目されていた反戦活動家の写真。Johnとはもちろん元ビートルズのジョン・レノン、Yokoはレノンの妻オノ・ヨーコさんだ。
カナダ国内ではベトナム戦争に反対する人だけでなく、賛成する人たちもいた。下の写真のカナダ人たちは、「共産主義の脅威」から世界を守るため、米国兵士としてベトナム戦争に参加した。
続いて、この小さなプラスティック製の容器がぽつんと置いてある。
一見可愛らしいこの容器の上部についている突起に触れると、爆発。容器中の金属片が辺りに飛び散り、直径25m以内にいる人を殺傷する能力がある。
エジプト、イラク、クエート、トルコで使用されている地雷だ。
これは1950-1953年に朝鮮戦争で使われていたカナダ軍の地雷。
1996年に使用しないことを決定した。
地雷で足を失った人たち。
カナダ軍技師が1998年にユーゴスラビアで履いていた爆風から足を守るブーツ。
どのように足を守るのだろうか。
義足も展示。
反地雷活動といえば、故ダイアナ妃。彼女は生前、地雷除去活動に熱心だった。
今でも国連は地雷除去活動に専念している。
続いてNEGOTIATEの展示コーナー。
まずは第二次中東戦争。1956年にスエズ運河をめぐってイスラエルが進軍。イギリスとフランスがバックアップしたが、
エジプト側にアメリカがつくという予想外の展開に進軍を撤回。その時の外交官のメモ書きが展示されている。
エジプト側についたアメリカ、そしてフランスとイギリスの対峙になり、西側諸国の亀裂に発展。カナダはアメリカにも欧州諸国とも良好な関係を重要とするため、狭間に立たされる。そこで当時カナダの外務大臣だったレスター・B・ピアソンは、どの国にも属さない国連の軍隊UNEF I(のちのPKO)の創設を提案。西側諸国の亀裂を修復しつつ、スエズ運河の保安に努めた。これにより、ピアソンは1957年にノーベル平和賞を受賞している。
各国間の紛争を国連が停戦監視するため、PKO。おなじみのブルーのベレー帽。カナダに来て初めて知ったことのひとつに、現在でもファーストネイションとカナダ(アメリカ)が地域主権をめぐって争いがあること。
現在、ファーストネーションの6民族は同盟状態。下のモニュメントは、POWERを示している。
そして独自にパスポートも発行していることに、かなり驚いた。今月13日には、Ottawaから車で3時間ほどの場所にあるOshawaという田舎町でラクロスの女子ワールドカップの試合で、日本とHaudenosauneeのナショナルチームの試合がある。
近年では、モントリオール近郊のOKAでゴルフ場建設をめぐりファーストネイションの土地利権争いがあった。
ただし、全体的にカナダ政府とファーストネイションの関係は良好だ。
アメリカとカナダの国境は、世界最長の非武装国境線として知られているが・・・・
やはりこの二国間の国境でも過去から現在でも、いろいろと問題がある。
水の汚染をめぐってのイザコザ。
これはアメリカだけでなく世界各国とカナダの問題。北極海の航行路にカナダは主権を主張。各国は「その海域は公海だ」として、カナダの主張を認めていない。専門家の間では、近年の地球温暖化で北極海の氷が溶ければ、この問題も解消されるだろうという人もいる・・・・・。
現在のアメリカとカナダの領有権を巡るトラブルは、この島が代表的な例。とても小さな島なので、カナダとアメリカともこの話題に触れることに消極的。しかし、
カナダは領有権問題が解決していないのにもかかわらず、灯台を建設し、灯台守も常駐。航行上、灯台の必要がない場所なのに・・・・。結局、灯台守の仕事は、カナダ国旗を毎朝掲揚するだけとのこと。
こんなノンビリした国境紛争だが、過去には戦艦も出動するほど緊迫した状況になったこともある。それはカナダがまだイギリスに統治されていた時代。
1859年にある事件をきっかけにアメリカ軍は461名の兵士と14のキャノン砲を派兵。一方、イギリス軍は5艘の軍艦(総勢2140名)を派遣。双方とも一発触発の状態だが、危機一髪で戦争は回避された。
ある事件とは、この直筆のノートに詳細に書かれている。An Americanから始まるこの文章、「牧場から逃げ出した豚がアメリカ国境を越えたため、アメリカ人に撃たれて死んだ」と書いてある。のちにこの戦争がPig Warと呼ばれる所以だ。この豚のオーナの怒りがどれくらいだったのか、文末の「!!!」で思い量れる。
現在、カナダ人とアメリカ人ともパスポートを見せるだけで、すんなりと国境を越えられる。
いい時代になったものだ・・・・。
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